組織開発は生き方、覚悟
最も重要なポイントは「ビジョン」への共感醸成
株式会社西尾硝子鏡工業所 代表取締役 西尾智之様
平尾:まず初めに、西尾硝子さんが組織開発に取り組まれるようになった背景や、どのような経緯でわれわれと出会うことになったのかなど、お話しいただけますか。
西尾社長(以下、西尾):父親が亡くなった1992年(平成4年)、当時26歳になって間もない私はサラリーマンで商社に勤務していました。しかし、父親が亡くなったことで、全てを変えて、自分の会社に戻ってくるという決断をしたんです。
父親の臨終に立ち会った際に、父親に最後の言葉として「自分が継ぐから安心しなよ」と伝えました。父親はもう話すことはできなかったのですが、布団の中から手が出てきて、僕の手をずっと握っていたことを覚えています。継ぎたくて継いだというよりも、父親との最後の約束のために継いだ。それがその時の自分の正確な気持ちかもしれません。
しかし現実に会社に入ってみると、驚きの連続でした。商社と全く違うのです。組織も空気も人も違うし、会話も全然違う。ここは何なんだっていうくらい、まるで違う世界でした。本当に苦労しましたね、特に人間関係では。
当時33人の社員がいて、一番年下の社員も31歳という全員年上の人ばかりの中で、経験した人でなければ分からないプレッシャーがありました。
そもそものスタートで、社員になかなか受け入れてもらえませんでした。口では「一緒にやりましょう」と言ってはいましたが、自分が受け入れていなかったかもしれません。こちらも、自分が一所懸命な分、頑張らない人を馬鹿扱いしたりしてしまっていたかもしれません。同時に、硝子業界の人たちも名刺交換をしても、「なんだ、西尾の若造か」という雰囲気で、なかなか受け入れてもらえませんでした。
「今であれば、『会社は長く続けることが大事』と堂々と言えます」(西尾)
西尾:それまで勤めていた商社とは雰囲気も違いましたが、「後継者として親父を超えなければいけない。だから会社を大きくしなければいけない。」という気持ちもありました。
実際に、1992年に西尾硝子入社後、最初は苦戦していた売り上げが、2000年に私が社長に就任した後に一気に伸びたんです。「やればできるじゃん、俺!」とかなり気持ちが高揚していました。
2007年くらいまで、だいぶ無茶をして仕事をしていたので、社員にもかなり負担をかけていたんですね。さすがにこんな状態がいつまでも続くと、絶対にみんながおかしくなると感じながらも、思いだけで突っ走しり、自分自身でさらにエンジンを加速していました。
平尾:そんな西尾さんの転機はいつだったのでしょうか。
西尾:2008年のリーマンショックを機に、売り上げは6割も急減しました。前年対比40%、半分以下になりました。ただ、最初の段階では赤字を甘くみていました。「赤字になっちゃったな」と思いながら、すぐに挽回できると楽観していました。
しかし、2年目にさらに赤字幅が広がりました。全て自分の中で責務を背負うのだと考え、苦しみながらリストラを断行しました。そのことで、社内に疑心暗鬼が広がりました。
あの頃、「自分は帝王学を学んでこなかった」という負い目から、必死になっていろいろな勉強をしていました。この部屋(社長室)に、勉強の資料が段ボール3箱分もあったんです。3年連続で赤字が決まり、もうどうにもならない時、頭に血が上り段ボールを勢いよく投げ捨てたんです。すると、段ボールが壊れ、その中からある一冊の本が出てきました。
その本の開いたページに「会社にとって一番大事なことは、長く続けることだ」とピンクでマーカーしているのが見えました。どこで道を間違えたのか、自分は何も分からずに会社を大きくすることが大事とばかり言っていたことにようやく気付きました。
今であれば、「会社は長く続けることが大事」と堂々と言えます。「社員みんなが安心して働けて、その結果、成長できる」としっかりと断言できます。
「組織開発における『戦略をやり切る組織』という言葉に出会った」(西尾)
西尾:平尾さんとの出会いは大きな転機となりました。「3.11」のあった2011年で、その年の2月15日に、平尾さんが講師をされた東京商工会議所のセミナーでお会いしているんですね。タイトルが「戦略をやり切る組織づくり」だったと思います。
私はその言葉に非常に引かれました。戦略を立てても、なぜ誰にも伝わらないのか、ということが当時の最大の悩みでしたから。
そして、2011年4月9日の全体会議。平尾さんたちにオブザーバーで参加してもらいました。3年連続赤字になることが見えていて、いろいろ手は打ったのですが、自分の中では何がどう間違っているのかが分からなくなってしまっていました。ですから客観的に外部の人に、この会社は今何が問題なのかを見てもらおうというのが、平尾さんたちに来ていただいた主旨でした。
全体会議終了後、平尾さんから「外部者として参加しての総括をしたい」と電話がありました。会社ではない所で話をした方が良いかもしれないと言われ、駅前にある東急インの喫茶室で話をしました。平尾さんたちは初めてわが社の会議を見たのに、「誰があの時、こんな話をしていた」「こんな話がこんなふうに振られて、誰かがこう言って、その時こんな人がこんな表情をしていた」と非常に詳細にわたり覚えていることに、大変驚きました。
次に私が思っていることを話しました。その時の会話で「こんなに人の話を真剣に聞いてくれる人はいなかった」と率直に感心しました。ですが、自分の中では相当自信を失くしていた時期でしたので、「実はこういう状況だから廃業したいんです」というような話まで切り出しました。
すると、平尾さんから「お仕事が続いている会社が自ら閉じるのはもったいない話ですね。私たちに何ができるか分からないですが、もう一回、一歩踏み出す価値はあると思いますよ」と熱心に語っていただいたのを、今でも鮮明に覚えています。ギリギリのところで、本当にギリギリのところで、唯一、平尾さんが経営を続けることを進言してくれました。もしそれがなければ、私は間違いなく廃業の道を選んでいました。まさしく瀬戸際でした。
「最後は社長」だから社長自身が駄目だと思ったら、もうそれで会社は終わりです。だからこそ、誰かサポートする人が必要だと思います。社長も人間ですから。サポートとは、何よりも聴いてもらうということが大切です。真剣に向き合ってくれる愛情がある人が、きちんと受け止めてあげることで人は救われることがあります。
その姿勢が、CCIさんと他の会社と大きく異なる部分だったと思います。
「『本当の会社』にするために創業家が邪魔しては駄目だ」(西尾)
西尾:いよいよ組織開発を始める時に「本当の会社」にするために創業家が邪魔しては駄目だと考え、当時の会長だった母親と工場長の叔父に会社を抜けてもらうようにお願いしました。そのことで自分の覚悟も決まりました。あと1年間だけ時間をもらい、ここで存分にやり、それで結果が出なければ受け止めようという腹が決まったのはこの時かもしれません。
平尾:ご自分の肉親の、ある意味で生きがいを外す決断でもありました。
西尾:もちろん、会長も工場長も簡単に首を縦には振りませんでした。最終的に彼らが受け入れたのは、私から「お二人とも昔からのわが社の功労者です。もし廃業となったときに、お二人がいながら、どうしてそんな結果になったんだと言わせてはいけない。それは全部自分が背負うから」と覚悟を伝えたからでした。この言葉が彼らの心に響きました。「そこまで言うんなら分かった。だが、会社から抜けてもいつでも応援するから」と応えてくれました。会社変革を始めるための準備が整いました。
「『ベクトルが合うとはこういうことだ』という快感を得ました」(西尾)
平尾:2011年6月に幹部キックオフミーティングを行いましたね。大変な葛藤状態も生んだミーティングでしたが、なぜ、西尾さんの心は折れなかったのでしょうか。
西尾:おそらく、「この1年に全てを懸ける」という思いが根底にあったと思います。
その後にCCIさんを交えての全社ミーティングも開きましたね。全社員で取り組んだあの時も、みんなで真剣にさまざまな話をしました。私だけでなく、幹部以上も針のむしろでした。最初は「やっていられない」と複雑な思いにもなりましたが、2日間をかけてやり切った後に、「ベクトルが合うとはこういうことだ」という快感を得ました。あのタイミングだったから意味があったし、達成感を得ることができたと思います。一人きりで走ってきましたから、こうやって真剣にみんなで話せる場は今まで一度もありませんでした。実は自分自身はこういう場こそを望んでいたのではないかと気付かされました。組織開発って色んな人の解釈がありますが、私としては「生き方」であり「覚悟」だと思っています。
平尾:「組織のベクトルを合わせる快感」。これも経験していない人たちにはなかなか伝わりづらいかもしれません。現実にベクトルを合わせる作業は、お互いの違いをぶつけ合うことです。「あなたと私はここが違って見えている」「それはあなたの考えで俺は違う」と遠慮なく本音をぶつけることが結果として、真の意味での「ベクトルを合わせる」ことにつながります。
西尾:非常に貴重で何ものにも代えがたい経験でした。今でもいろいろな講演会で話をしますと、必ず驚かれます。「えー、西尾社長よくやりますね、そんなこと」と(笑)。しかし、これはテクニックでも何でもないと思っています。「やり切った人」と「やり切れなかった人」とは後々の結果が全く違ってきます。
何回も実施する必要はないかもしれませんが、この2日間で全てのもの、どんな稚拙な意見も含めて受け入れるという時間は貴重でした。これを経験しますと、組織に言い訳はなくなります。意見をぶつけ合うことをいとわなくなるし、間違いがあれば、たとえ経営者だったとしても何のためらいもなく謝れる。それは、受け止めている証拠です。全体ミーティングで私が痛切に実感したことです。
平尾:修羅場ともいえるような出来事を越えて強い一体感が生まれたのにもかかわらず、その後業績がV字回復したら、再び組織文化が緩んでご苦労されました。そこで次の取り組みとして、「フューチャー・サーチ」(過去から現在までの社会・企業・個人の年表制作)を幹部の方々と共に作りました。西尾さんのお父様が亡くなってからの年月を振り返ってもらい、みんなで未来を考えましたね。
西尾:感慨深かったですね。自分が歩んできた道を振り返り文字にしてみると、可視化して確認できますし、実に多くの人たちから支援を受けていたことが分かります。同時に自分自身を真正面から肯定できた瞬間でした。
年表を書くまでは、心のどこかで「これでは駄目だ」とささやく自分がいるんですよね。だから追い立てられるように無理をしてでもがんばってしまう。しかし、年表を作ってみて、「まあ、良くやっている」と自分自身を認めることができました。自分自身にとって、大変貴重な機会でした。
平尾:西尾さんが過去の「わが社」の歴史を話しだすと、若い人たちも一生懸命に耳を傾けます。それはまるで西尾さんの歩んできた道を共に追体験している感じがありました。西尾さんが年表を作った後に「ここに亡くなっている先代がいたら、俺たちは褒められるかな? 叱られるかな?」という言葉を発しました。非常に本質的な問いであり、心が揺さぶられる言葉でした。
西尾:そんなこともありましたね。思い出しました。
「特に女性は今の時代、成長の速度が著しいと実感しています」(西尾)
平尾:さまざまなプログラムも実施しながら、西尾硝子は組織成長をされてきました。その成長を象徴的に確認できるのは毎年行われる「事業発展計画発表会」ですね。
西尾:「事業発展計画発表会」は2003年からスタートしているので今年で15年目。最初からすると随分変わりました。私自身も成長できました。自分が大切にしている価値観だけは変わっていませんが、その他は全部変わっています。毎年少しずつ変えて、気付いたら全く違うものになっていたというのが正直な印象です。
この発表会を見ていると、特に女性は今の時代、成長の速度が著しいと実感しています。一つは自分たちが実践してきたことに自信が持てるようになってきたという側面もあるのでしょう。例えばIさんは他社の社長とお会いして、自分が取り組んだことを評価されたことが自信につながりました。Tさんは環境委員の委員長に就いて結果が出ることで自信を持ちました。管理職であるYさんも女性陣をたばねる立場として、かなり腹の座った発言をして影響力を発揮することで自信を深めています。
現在、わが社の中では、約4人に1人が女性なんですよ。そもそもわが社で扱っている物が「硝子」と「鏡」です。にもかかわらず、もともと女性が少なくて、男の感性だけで鏡を加工していたことに課題があったと思います。もちろん、「重いから」「割れたら危ないから」など、確かに注意しなければならないことがありますから、安全対策は徹底しています。
女性以外の若手でも、Kさんは「腕がある技術者だから」ではなく、「リーダとしてマネジメントができるから」という理由で工場を任せています。若手という意味では、この前も20代の人が1人入社し、平均年齢が36.3歳になりました。平均の勤務年数も9.3年と、創業86年にもなる町工場としては、おそらくかなり若い方だと思います。会社として、若い人が増えてきた証拠です。
「創業100年の2032年が集大成」「五つの事業を柱に5人の社長を立てる」(西尾)
平尾:最後に、今後の事業と組織について教えてください。
西尾:2032年、会社が創業100年の年、私は65歳です。その時が自分自身の一つのマイルストーンであり、集大成と位置付けています。私自身は、後を継ぎ三代目としてこの事業を営んできましたが、「硝子の加工屋さん」という領域で終わりたくないと強く思っています。会社を大きくするという意味ではなく、「加工屋さん」で終わるのはどうしても納得できません。
今、硝子はどんどん工業製品化しています。メーカーの工場で全部組み込まれた製品が出てくる中で、昔と同じように町工場で硝子を切り加工しているだけという会社は、数少なくなっています。しかし、逆にこれは、「ものづくり」を伝えるチャンスだと前向きに捉えています。だから若い人が集まってきていると理解しています。
額に汗する人たちが報われる「ものづくり」をしていくためにも、今後展開する事業として五つ考えています。
もともと営んでいた「硝子屋さん向けの卸事業」、それから店舗などに特化した自分たちで取り付けまで行う「内装工事の事業」。そして「メーカーとして自分たちで作った製品や技術を使った製品を皆さんにお届けする事業」。
こうして自社ブランドが浸透していくと、今度はものづくりの現場にさまざまな人たちが見学に来ます。修学旅行やインバウンドなどを対象に硝子の切断や接着を実際に体験してもらい、硝子に対する認識を深めてもらうという、「工場見学」の事業も手掛けたいですね。
最後に、このような硝子関連の仕事をしてみたいという人のための「人材育成事業」、つまり学ぶ場の設立を構想しています。自分たちの学ぶ場を作り、卒業生は当社に入社してもらうし、他の会社に入社しても構いません。われわれの業界における次の世代を育成していく機関を設けること、人を育てること、それが私のゴールです。
平尾:西尾さんの思うように会社の事業構造を変えていくために、これから組織をどうしていきますか。
西尾:5事業なので、事業ごとに社長を立てます。そのために、自分で課題を考え、答えを導きだし、自分の言葉で伝える習慣を持った組織にしたいと考えています。とにかく自分の頭で考え、考えて行動を起こすようにと日々指導しています。
ですから現場のことに私はあまり意見を言いません。最近は会議も全部プランは幹部が作っています。従業員同士がファシリテートするようにも変えています。社外の人に会える機会も積極的に設けたいと思っています。もっともっと世の中にはいろいろな人がいるので、外部から刺激を受けてもらえるよう、意図的に仕掛けています。その中で気付きを得てもらいたい。そして、学びのために恥をかくことも大事ですね。そういう環境作りをしています。
平尾:最後になりますが、多くの経営者や幹部は、生々しく本音をぶつけ合うようなことを避けて数字だけで管理をしていきたいと気持ちもあると思います。そういう人たちにどういうことを伝えたいですか。
西尾:組織開発において最も重要なポイントは「ビジョン」です。どういう世界に行きたいのか、その部分にまず共感しないと何も始まりません。「共有」ではなく「共感」しないといけません。それはロジックではなく、感じる世界です。共感しない人と一緒に仕事しても時間の無駄です。社員の悪口など言っている社長も何人もいますが、そういう社長に限って、「自分はこうしたい」という明確なビジョンをほとんど発信していません。
もちろん自分のビジョンを率直に語るのは、決して簡単なことではありません。葛藤して悩んで「本当にこれでいいのか」と何度も自問自答を繰り返し、腹落ちするまでに相当な時間を要します。その上で仲間と方向性を合わせていく作業が必要です。この部分を逃げている人は意外と多いのではないでしょうか。
平尾:組織のベクトルがそろえるのは経験者の西尾さんの実感としては、「甘くはない」けど、会社にとって一番大切なことであり、「会社を継続させる」ためには避けて通れないことでもあるということですね。
今日は本当にありがとうございました。
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