• Posted 14.06.20

コンサルティングのご要望に多いものの1つ、チームビルディング。

チームビルディングの構成要素の核にはコンセンサスがあると思います。

しかし、よく見られる大人の表層的なコンセンサスではビルドされず、もちろん「まとまれ!」と言っても

パワーマネジメントではまとまりません。今回は、幕末に散った新撰組を題材にその様子を感じて頂き、

コンセンサスに必要な本質を探ってみたいと思います。

 

壬生の狼と畏れられた剣客集団がおりました。その名は皆様ご存知、新撰組です。

局長の近藤勇を頂点に総長の山南敬助、副長の土方歳三、その下に副長助勤を配置しており、

沖田総司、永倉新八、斎藤一、藤堂平助、原田左之助、松原忠司など剣の腕、槍の腕、柔の腕など

各々の才覚を活かした凄腕の組長が支えとなり、1860年代に佐幕派として倒幕派と死闘を繰り広げ、

最強の剣客集団として名を馳せました。

局長、近藤勇は若かりし頃は試衛館、天然理心流という当時は名もない貧乏道場の主でした。

同時期、土方歳三も石田散薬の薬売りに過ぎませんでした。原田左之助は、浪人といえばまだ聞こえ

はいいものの一説には当時盗賊に槍の才を貸して何とか生活をしていたそうです。永倉新八も同じよう

なものでした。そんな彼らが、京都へ上り新撰組というチームを結成し名を轟かせ、儚く散って行きます。

 

壬生浪士組。

新撰組の前身となる組織名です。壬生という地域に集まった浪士の集まりですから、あまりにそのままの

組名で何とも垢抜けない印象です。当時の局長は3人。筆頭局長の芹沢鴨(せりざわ かも)と他に2名

の局長がおり、新見錦と(にいみ にしき)と近藤が務めておりました。結成当時の組員数はせいぜい15

名ほどだったと思います。

たった15名の組織に局長が3名。なんか、歪ですよね。これには理由がありました。当時の壬生浪士組

は芹沢一派と近藤一派の合同編成でした。つまり、たったの15名のチームで派閥争いを繰り広げていた

のです。

ですから、互いの人員を少しでも役職に就かせて主導権を握ろうとしていたのでした。

現代でもドラマにもよく出てきますが社長派・専務派、M&Aなどの機会でなにやら耳にしそうな話です。

時代が時代でしたからこの派閥争いは、近藤派による芹沢一派の暗殺という形で終止符は打たれます。

 

皮肉な話ですが、その後大所帯になった新選組は、コミュニケーションが複雑化し、士道に背くまじきことで

始まる、局中法度で半ば無理くりまとめあげようとしたところから、この新選組というチームは瓦解していったよう

に感じます。最初は近藤の人柄を慕ってスモールチームができ、その近藤のコアコンピタンスに惹かれまた回り

の雰囲気に惹かれして肉付けされるように人が集まり大きくなりました。

近藤はチームが大きくなってから、むしろ佐幕派のビジョンを前面に掲げ、CIカラーを浅葱色に染め、CIフラッグ

を誠とし、上記の局中法度を厳格に実行し、意識してチームをまとめようと腐心します。

結果は歴史が証明している通り、多くの組長・隊士の戦死、暗殺、逃走と惨憺たる末路を辿っていきます。

 

倒幕派の一掃というビジョン、基本は多勢で囲み少数を倒す戦略、死番と局中法度を敷いた上の徹底した

オペレーション。刀で敵を打倒する戦闘組織としては堅固なものでしたが、その先へ行くための共有できるビジョン

を描ききれず、局中法度をもってコンセンサスとした過ちを感じざるを得ません。

現代では、価値観や生活のスタイルが多様化し、現代は現代でチームビルディングを達成するのは簡単なことで

はありません。少なくとも制約の強化やパワーマネジメントでは歴史が物語っているように継続性に欠き、上手くはい

かないものだと思います。

 

ただ、近藤勇と近藤を囲む初期のメンバーを想像するに青臭いビジョンと人柄がまずは必要な要素なのだろうと思います。

 

 

内田拓郎