今回から3回に分けて、ドラッカー研究者であり編集者でもある井坂康志氏と弊社代表の平尾貴治とのZoomによる対談をお届けします。
<井坂康志(いさかやすし)氏プロフィール>
1972年埼玉県生まれ。現在、ものつくり大学特別客員教授、ドラッカー学会理事、編集者、メディア・プロデューサー。早稲田大学政治経済学部卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。博士(商学)。著書に、『P・F・ドラッカー-マネジメント思想の源流と展望』(文眞堂、経営学史学会奨励賞受賞)、『ドラッカー入門 新版』(ダイヤモンド社、上田惇生氏と共著)等。
平尾 ウィズコロナはしばらく続く予想があり、いくつかの会社は在宅勤務を中核に置くなど表明しています。大変革期をどう考え行動すれば、逆にチャンスとして前に進むことができるのか。対談のテーマはそこにあります。
経営の父と呼ばれるピーター・ドラッカーや上田惇生先生と多くのやり取りをしてきた井坂さんとして感じていることからお聞かせいただいてもよろしいでしょうか。
※上田惇生(うえだ あつお)・・・1938年生まれの経営学者。経団連国際経済部次長を経てものつくり大学名誉教授、立命館大学客員教授、ドラッカー学会学術顧問。ピーター・ドラッカー自身から「最も親しい日本の友人」と言われドラッカー主要著作の全てを翻訳した。井坂氏との共著も多い。2019年1月逝去。
井坂 今回のコロナを考えると、社会存立に伴う認識が変わってしまったことが何より大きな変化だと思います。
「組織」はそもそも何のためにあるのか、どうあるべきなのかという問いがコロナによって強く全面に出てきた印象があります。ドラッカーの考え方はシンプルで、「社会の存続が第一にある」というものでした。
どんなに組織が繁栄したとしても、社会が存続できなかったら何の意味もないということです。水が干上がっているところに船の航行する余地がないのに似ているでしょう。企業も、病院も、学校も、NPOも、一つの例外なく社会のなかで再生産をしているからです。
言い方を変えれば、「長期の再生産を可能にしないマネジメントは社会に対して無責任」ということでもあると思います。再生産を可能にする条件は、常に社会の側から与えられるということですね。
働き方、子育て、学び方、生き方全般、すべてにおいて生存の社会的条件が変わってしまった。そこからしかアフターコロナは考えられないのではないでしょうか。
コロナの前に戻れるのか
平尾 私も同様の認識を持っています。企業のお手伝いをしていて、ここ数年、事業の根本的見直し、ダイバーシティ、働き方改革など遅々として進まなかったものが、コロナの影響で「やむを得ず」かもしれませんが、進んだ印象があります。
けれども一方で、緊急事態宣言が解除された後、いくつかの企業の方と対話する中で、「コロナ前」の状態に完全に戻そうとしている動きを感じることもあります。
経営者が「また対面で元のように働こう」と言った時、部下の方々は違った受けとめ方をしていると思うのですね。テレワークをほんの数か月でも経験すれば、誰でも「会社に集まる意味は何か」「会議の意味は何か」「一緒にいないと評価できない成果主義は何か」「社会に対してどんな価値を出しているのか」など、次々と疑問が出ている。
井坂 元に戻そうとしても不可能だと思います。
多くの場合、変化は「利用できるか・できないか」のどちらかです。利用できなければ、回転するひき臼にすりつぶされて終わってしまうだけになるでしょう。
とりわけ重要と考えられるドラッカーのコンセプトとして、「廃棄」があります。廃棄は、人や社会が最も苦手とするものであることも指摘されています。特に平常時においては、能力・やる気が高い人間ほどかえって廃棄ができないものです。
30年前のバブル経済の頃など、能力・やる気の過剰な人で猪突猛進した人たちが社会を破壊してしまった。彼らの頭には廃棄すべきものがあるなどつゆほども浮かばなかったのではないでしょうか。
一方で、今回のコロナは何を教えてくれているのか。在宅の件も含めて、「今までの仕事の仕方を不要にする別の方法があるのではないか」ということでしょう。従来の常識を強制的に終了させて、別の可能性に目を向けさせてくれたわけですから、考え方によっては価値の高い体験であったとも考えられると思います。自粛期間中の自身の働き方を今一度考え直してみれば誰しも思い当たるのではないでしょうか。
今回のコロナを考えるにあたって、私は二つの視点に分けて考えるべきだと思います。
私はなぜか台風を思い出します。よろしければ想像していただきたいのですが、台風そのものがもたらす被害の視点と、台風によって明らかになった社会の側の課題発見という視点です。
特に大切なのが後者だと思うのですが、放置していた建物やインフラの老朽化がたまたま台風によって可視化されたという視点です。あえていえば、台風が痛んでいた個所や修復を要する場所を教えてくれたという。
組織も同じだと思う。戦後出来上がった会社や働き方のシステムが、すでに機能していなかったのに惰性で存続していたのを、無効や無能を白日の下にさらしてくれたという見方も十分に成り立つと思うのです。
もちろんコロナは筆舌に尽くしがたい災禍なのは言うまでもないことです。けれども、注意しなければならないのは、コロナに全責任を負わせて、過去の不作為や無責任を免責しようとする考え方をすると、未来に対して目を閉ざしてしまう点だと思います。
平尾 確かにわれわれが戦略策定のサポートをする時にも、みんなお金・時間・人が足りないと言いつつも、戦略決めにおいて、基本的に廃棄がなく、足し算しか考えないことが多いです。
急激な人口増加で市場規模も働き手も増え続けた時代に形成された戦略やマネジメントの常識が、かえって誤った「出力過剰」につながっていると思います。少子高齢化が急激に進んでいることは誰もが知っていたのに、出力過剰のままで、コロナまで来てしまった感さえある。
個人として、あるいは企業人として、現在何が必要なのでしょうか。
井坂 今回のコロナは、ドラッカーが晩年まで語っていた「知識労働」の本質を考えるうえで、マーシャル・マクルーハンのいう「インターフェース」をたくさん示してくれました。インターフェースとは、知覚を拡張させてくれる道具ですから、今まで見えなかったものや聞こえなかったものが見えたり聞こえたりするようになるということです。
スマホなどは本当にすごい意味を持つインターフェースです。
そのなかで、テレワークなどは、知識労働にとって、革命的なインターフェースだと思います。たとえば、Zoomを使えば、地球の裏側にいる人とでも目の前にいるように会話ができる。
この対談もZoomを使って行われていますね。それぞれの自室で、言語や表情を介して、知的なアウトプットを行う。
記事が一つ作れるくらいの知的アウトプットが可能だとすれば、他にもコンサルティング、システム、デザインなどできることは無限にあるということです。こんなに生産性が高い方法はちょっと今までなかったような気がする。
昭和・平成の時代だったら、どこかの会議室で、お互いの時間をやりくりして集まって、場合によっては終了後に懇親の場を持ったりなど、ややこしい過程を経なければならなかったはずです。
革命的な変化ではないかと思います。
※マーシャル・マクルーハン・・・1911~1980年。カナダ出身の英文学者、文明批評家。もともとニュー・クリティシズム等を論じる英文学教授だった。現在、メディア研究と呼ばれる分野において重要位置を占める存在のうちの一人とされる
平尾 確かにインターフェースとして、フラットな関係性を作れている気もします。
私たちの行う組織開発は、人間の内在的価値によって関係性を変え、戦略を変え、組織がどう社会に役立っていくかを一気通貫させる点を目指してきたこともあって、リアルでの対面を大切にしていました。
しかし、リアルでの対面が難しくなったために、やむをえずリモートを活用したとき、組織開発の観点からいくつか驚いたことがあります。
まず、全員が均等に向き合いながら、同じ距離で顔と顔を見ている。これなどは、なかなかリアルでは作りにくい場です。定例の会議などを思い起こしていただきたいのですが、たいていは机には配布物があって、職位順に席が決まっていたりしますね。
そのこともあって、リアルでワークショップを行うときなどは、始めと終わりに、机を取り払って、椅子だけで「抜き身の一重の輪」を作るのです。「チェックイン」「チェックアウト」と言います。リアルではわざわざそうしているのが、Zoomではデフォルトになっている。
先日も井坂さんのZoom講義に参加させていただいた時、百何十名参加者がいたわけですから、リアルだったら、たぶん私は何人かの頭ごしに井坂さんを見なければいけなかった(笑)。Zoomなら完全に井坂さんと向き合えるし、途中で気になったらZoomチャットを使って、いつでも伝えられる。リアルではありえないことです。
井坂 社会現象として見たコロナは、強い解毒作用を伴っているのではないでしょうか。
やはり世界や社会、会社とはこういうものなのだという強固な思い込みをほどいてくれたのは大きいと思いますね。
毎日満員電車に乗って会社に行くのが人生なのだ、上司のいうことを粛々とこなすのが仕事だとか、そういうことです。誰もが人生や仕事をそういうものなのだと思っていた。
けれども、それらも「どこかで誰かが作ったもの」、その意味では人為的なものなのです。インターフェースに接して初めて、思い込みの観念の人為性がはっきりしてくる。「会社とは何か」とか「学校とは何か」とか。今回のコロナというのはある面では、こうした人為的に引っ張った線をもう一回白紙に戻して、可能性を前に素朴な問いを発することを許してくれたわけです。
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